『〝自分でやるしかない〟と思い知る』 2018年11月
親元を離れ、集団で寄宿して公立小学校に通う山村留学。親元を離れる寂しさはもちろんのこと、テレビもゲームもコンビニもない環境に、都会から来たばかりの子どもたちの多くは戸惑う。しかし、村の人たちに温かく迎えられ、地元の子どもたちや留学仲間と、思い切り遊び、ときには思い切りケンカして絆を深めながら過ごす中で、徐々にどの子の表情も目に見えて生き生きとしていることがわかる。
初めて村に向かうとき、不安がって泣いていた子が留学期間も終わりに近づくころには、「まだ頑張りたいことがあるから戻りたくない」と、親御さんに泣いて訴えるといったこともよくある。子どもの様子を見るために村を訪れた親御さんたちは、授業で身を乗り出すようにして積極的に手を挙げていたり、熱心に下級生の面倒を見ていたり、村の人が教えてくれる太鼓や踊りに熱心に打ち込んでいたりと、すっかりたくましくなっている我が子の姿に目を見張る。最初は、まだ幼い小学生の我が子を手元から離すことに不安を感じていた親御さんも、我が子が親を恋しがらなくなることに寂しさを感じつつ、次第にその成長ぶりを頼もしく感じるようだ。
「離れたことで、親子の絆を今まで以上に強く感じるようになった」、「子どもの表面的な部分だけではなく、内面を見ようとするようになった」というような声も毎年耳にする。山村留学という形での子離れは、想像される以上の変化を親と子の両方にもたらしているようだ。
ある男の子のお母さんは、彼が山村留学から帰ってきたときから何か異変に気が付いたそうだ。…トイレがいつもピカピカなのだ。不思議に思っていたところ、彼が黙って掃除していたことを知り、とても驚いたとお話されていた。
実は、子どもたちが生活する施設では、大人は子どもたちに対して「掃除をしなさい」とは言わない。誰にも命じられはしないものの、汚いままでは困ってしまうので、子どもたちは自分たちで分担を決めて掃除をする。家では、トイレが汚くてもそのうちにお母さんが掃除してくれるが、山村留学では汚いことに気が付いたら、自分で掃除するか、トイレ掃除を担当している友だちに伝えるか、とにかく自分で対処しない限り、きれいにはならない。彼もまた、山村留学生活において、〝自分でどうにかすること〟が当たり前になっていたのだ。
そして、もうひとつの大きな変化は、彼のお母さんの表情がとてもにこやかになったことだ。以前のお母さんは、彼に対して過干渉気味で、教育に関していつもキリキリしている様子だった。おそらく彼との距離があまりにも近くなり過ぎていたのだろう。山村留学をきっかけに親子関係にも変化があったようだ。彼と離れたことでちょうどいい距離感になり、帰ってきた我が子の自立した様子を見て、お母さんもすっかり精神的に安定したようだ。子が変われば親が変わり、親が変われば子も変わる。
後々、山村留学を経験した子が、海外留学をすることもあると聞いた。親元から離れて生活するという最大級のチャレンジを乗り越えたことで、「なんとかなるんじゃない?」という強い自己肯定感が生まれ、未知の世界に飛び込んでみようという意欲が旺盛になるのだと思う。〝自分はひとり〟という孤独を経験する。それは、自立までに通らざるを得ない道だ。〝他者に頼らず、自分ひとりで引き受ける〟という覚悟は、そこから生まれる。自分が引き受けた場所の掃除をする人は、自分しかいない。自分でやらなければ、どうにもならない。それと同じ意識レベルで取り組むのが、本当の学習だ。
〝できない自分〟と向き合うこと、〝自分はなんでこんなにできないんだろう〟と思い知ることは、孤独を経験することと同じ次元の経験だ。自分はひとりであることを思い知ること。自分の能力の限界を思い知ること。そこを通過して、初めて自立することができる。
西郡学習道場代表 西郡文啓