『学ぶことは、感覚を磨くこと』 2019年12月
これから先、子どもたちが生きていく社会は目まぐるしい速さで変化していく。人工知能(AI)に代表される先端技術の進化と普及は、人の働き方を大きく変えていくと言われている。
「今後10~20年程度で、アメリカの総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高い」(マイケル・A・オズボーン氏(オックスフォード大学准教授)
「2011年度にアメリカの小学校に入学した子供たちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」(キャシー・デビッドソン氏(ニューヨーク市立大学教授)の予測)
この二つの引用は、文部科学省のHPに掲載されている。
一方で、新たな仕事が生まれている。仮想通貨のスペシャリスト、ビッグデータを元に治療を施す新世代の医師。今までにはなかった、あるいは、より進化した仕事が必要になってくる。そうした変化は、すでに現れ始めている。安定と言われていた企業が、経営破綻などの苦境に見舞われることは珍しくない。これまで優位とされていたものが、まったく別のものに取って代わられる。今後は、そのような変化がさらにドラスティックに、しかも、短いサイクルで起こってくる。子どもたちが成人して、働く大人になった時代にはどうなるのか。変化が激しく答えのない時代の入り口に子どもたちは立たされている。変化の激しい時代に対して悲観的になる必要もない。今に始まったことではない、人類の歴史で大変ではなかった時代はない、と開き直ればいい。劇的に変化があるならそれはそれで面白い時代に生まれた、好機があると捉えてもいい。いずれにせよ、今、何が起こっているのかというものごとの動きや流れ、あるいは他人の心など目に見えないものを見抜く力が必要になってくる。
子どもの頃に遊び尽くすことも、見極める力に繋がる。自然の中でかくれんぼをしているとき、あの木の後ろに誰かが隠れているのではないかと考える。その想像力こそが“見える力”になる。あるいは、サッカーで、それぞれのプレイヤーがこれからどう動くかを一瞬のうちにイメージして、的確な場所にパスを出すというのも、見える力を駆使している。そこにないものをあるかのように感知する。その感覚は、遊び尽くすという実体験によって鍛えられる。
算数や数学でも見える力を鍛えている。覚えた公式を当てはめて機械的に答えを出すのではなく、見える力を使って答えを出すことが算数の本質。象徴的なのが、補助線だ。図形を見たときに、そこに書かれていない補助線が見える。補助線が浮かぶか、描けるか。この感覚を鍛えていることで、見える力を伸ばせる。算数や数学が生きる力となり得るのだと思う。
見える力は、人やものごとについて、それが本物であるか、本質かどうかを見抜く力だ。自分が生きていくうえで、何に、どう取り組むか迷うことがあった場合、立ち返るのは自分にとって「本質なのか」「面白いことなのか」この二つを基準に判断する。後悔しないためにも、自分が打ち込めることなのか、熱中しないまでも少なくとも自分の時間を費やしてもいいことなのか、本当に意味のあることなのか、自分がやるべきことなのか、という基準に照らす。
先は見えない。保証もないが、どこかで決めるしかない、見極めるしかない。学ぶということは、究極、見極める感覚を磨いているのではないだろうか。
西郡学習道場代表 西郡文啓