『なぜ、そうする』 2020年2月
四年生の国語の授業を担当した。まずは始まりの挨拶をする。年度の終わり頃になると、子どもたちの挨拶もどこを向いているか分からない視線でぺこりと頭を下げる、緊張感のない挨拶になっている。一日に何度も毎日どこかで誰かと挨拶していれば、次第に挨拶もマンネリ化、おざなりになる。「なぜ、挨拶をするの」と敢えて問いかけてみる。子どもたちは、今更何を聞くのかとポカンとした表情を見せる。ちょっと間を置いて、もう一度「いい姿勢で挨拶をしよう」と言うと、いつもとは違う雰囲気に叱られるのでないかと子どもたちなりの危機管理意識が働き、こちらを向いて〝正しい挨拶〞をする。これでどうだという表情をする子どもたちに対して、「では、いい姿勢ってどんな姿勢」と畳みかけて聞くと、子どもたちは背筋をピンと伸ばす。〝正しい〞は習慣化して、一応型をつくることができる。
〝いい姿勢〞で〝正しい挨拶〞の後は、道場心得を音読する。一気に音読を終えると、「なぜ、音読をするの」子どもたちに問う。子どもたちは、また戸惑う。音読は日課でもあり、超がつくほどの当たり前の学習、音読はいいに決まっているから毎日やっている(やらされている)。「なぜ、音読がいいのか」を聞く。さらに、口をほとんど開かずに「あいうえお」と私が発声してみせた。次に母音を意識して、口の形をしっかりつくって「あいうえお」と発声する。どっちがよく聞こえるかと聞けば、即座に後者と子どもたちは答える。「なぜ、後者がはっきり聞こえるのか」を聞くと、「口をしっかり開けているから」と言う。もう一度、道場心得を全員で音読すると、子どもたちは口をしっかり開けて音読していた。
漢字の学習では、課題の漢字の読み、部首、画数、意味調べをして、覚えてくる。そして次回、漢字テストをする。これまでやってきた学習の手順だが、今日は漢字テストの答えの漢字をいきなり板書した。子どもたちは何が始まるのか怪訝そうな顔をする。大人同様、子どもも〝通常〞を好むことが多い。イレギュラーを好むのは少なく、落ち着きのない子、課題(宿題)をさぼる子がイレギュラーに興味を示すから面白い。今、この場で覚える。書いてもいいし、声に出してもいい、どんなことをしてもいい。今、覚える。5分後、漢字テストをする。いつもとれる点数とは違うことを子どもたちは実感する。漢字を見ていて覚えたようでも、いくつか漢字が並ぶと、すべて覚えるのは難しい。覚えたようでも覚えていない。その場で覚えることができる子、苦手とする子がいる。子どもの一面を知る。子どもたちに、「どうして、今見て覚えた漢字を書けないのだろうか」と問いかける。
道場の国語教材に『イメージ』というページがある。名文の抜粋文を自分で思い描いてお絵描きするというものだ。今日は『よだかの星(宮沢賢治)』の冒頭抜粋を描いてもらう。初回だから全文の読み聞かせをした。まだまだ四年生、授業には集中できない子も多いが、大正時代に書かれた文章でも理解はできるらしく、しんと静まり返って聞いている。思いもよらぬ、彼らが培う静寂に読み聞かせをする私自身が緊張して、ぎこちない読み方になってしまった。この緊張感を私が切らせてはいけないと必死に最後まで読み上げた。閑話休題。読み上げたタイミングで、「ところで、ゲームをするのと本を読むのと、どちらが学習になるか」と聞いてみると、ほとんどの子どもが即座に「本を読むこと」と答える。間髪入れずに本を読むことと言い切る彼らに本心から言っているのか、いつの間にかそう信じ込ませられているのか分からないが、ゲームする時間が多い彼らの返答に多少懐疑的になる。では、「なぜ、本を読む方がゲームをするより学習になるの」とさらに問うた。そして、冒頭抜粋のお絵描きに取り組んだ。
当たり前になっていることで日々の学習が流れ作業に、ただ熟しているだけになっていないか。主体性を取り戻してほしいから、敢えて「なぜ、そうするのか」を問うた。そして、子どもたちより問われるのは、この課題を選び、課した私たち自身であることは言うまでもない。
西郡学習道場代表 西郡文啓