「なぜ、そうする」私はこう思う
前回のコラムで「なぜ、そうする」と子どもたちに問うたことを書いた。答えは自分で考える。人の答えを鵜呑みにせず、本当なのかと感じる。そして、自分で探す。当たり前と思えることも、「なぜ、そうする」を忘れないこと。
さて、子どもたちに自分の考えを聞いた後、私は次のように子どもたちへ話した。
「なぜ、挨拶をする」
“礼儀だから”は確かにそう。相手に対して敬意を払うから始まりの挨拶は礼儀、は正しい。自分の時間を他から干渉されず自由に確保したいから、挨拶をすると私は思っている。「あなたたち(挨拶をする相手)に何も敵意はありません。お互い平和でいましょう」の確認のために挨拶をする。挨拶をしない、あるいは、不愛想な、不機嫌な挨拶は相手の状態を勘ぐる。これは無駄な時間であり、自分がより自由に何物にも囚われず束縛されない時間が欲しいから、気持ちのいい挨拶をする。
「なぜ、いい姿勢をする」
「いい姿勢ってどんな姿勢」
答えは至って簡単。“背筋をピンと伸ばして、胸を張って”は気持ちを新たにする儀式の姿勢であり、外から見た人の気持ちがいい姿勢、外からの評価がいい姿勢。しかし、このような見栄えの姿勢は自分にとっていい姿勢とは限らない。頭脳が最も働く状態がいい姿勢。頭や身体がどこも固まっていない、心身が解放され、リラックスしていて、“最も集中できる姿勢”がいい姿勢だ。そして、彼らは成長期、神経系が張り巡らされ、身長が伸び、体がつくられることで、いい姿勢になる。息の道が開き、息が通るように背は伸び、頭も尾骨の延長線上にしっかりと乗って、対象に対峙している。
対象に没頭すればするほど、対峙する姿勢、正面から向き合う姿勢になってくる。斜には構えない。学習者が対象に対峙し、集中している姿勢になっていると学力面も当然伸びている。私たちのやることは何かを教えるより、学習者自らが集中できる=いい姿勢をつくることだ。
「なぜ、音読する」
心身を解放するため、コミュケーションをよくするため、読解力を高めるため。では、「なぜ、毎日やる」のか。日課にするため、毎日やれば誰でもうまくなる、伸びるから。日課は訓練、だから訓練はマンネリ化しようが大切だ。大きな声を思いっきり出し、心身を解放する。心身の解放が最も集中できる状態だから。言葉を伝えるには、すべて母音(あいうえお)の口の形をしっかりつくり発する。何を言っているか相手にはっきり伝えることが、コミュニケーションの第一歩。意識してたまにやるではなく、日常当たり前としてできるためには訓練、つまり毎日やること。そして、スラスラ音読できるかどうかは持って生まれた才能の有無にもよるが、訓練を続ければ、スラスラ音読できるようになる。読み間違えたり、読み飛ばしたり、スラスラ音読できないなら、読解もできていない。スラスラ音読が読解の基本。
泳げない子もスイミングスクールに通えば泳げるようになる。自転車を乗るのと同じように、一度泳げれば、泳ぎで苦労はしない。運動神経が悪い、スポーツするのに向かないと思われる子でも、卓球部に入り3年間やれば、たとえ補欠でも校内では卓球は上手い子だ。生涯、卓球を楽しめる。訓練すれば誰でも伸ばせる。訓練を最も有効にできるところが、学校だ。朝から、毎日音読すればいい。口の形をはっきりつくり、大きな声で一気に心身を解放する音読、そしてスラスラ読む音読。毎日やれば誰でも伸びる。しかも、学校は群れでできる。
「ゲームをするのと本を読むのと、どちらが学習になるか」と聞いてみると、ほとんどの子どもが即座に本を読むことと答える。では、なぜ。与えられた映像と自分でつくる映像とは違う。ゲームの映像は刺激的で人をのめり込ませるが、所詮、受け身。自らつくるから頭が鍛えられる。字面を映像化するのは相当面倒な作業だが、読書が好きな人はそれも苦にしない、楽しむ。主体的ということは、自らつくること。生きていく上で、誰もがやっている。
西郡学習道場代表 西郡文啓