西郡コラム 『高校生に話す その一』

『高校生に話す その一』 

 講演会の依頼が久しぶりにあった。話す相手が高校生だそうだ。頭によぎったのは、私の話なんぞ高校生が聞くだろうか、ということだった。自分が高校生の時にも講演会はあった。確か、講演に来たのは京都の名のある寺の高名な僧だった。反抗期マックスの高校生、著名、高僧と聞いただけで何を偉そうにと鼻から反発した態度で臨んでいた。話は饒舌で力強く、慣れたものものだな。この僧が最後にまとめで強調していたのは、今やらずしていつやる、ということだった。が、何をやるかが問題だろう、常識やモラルに反発するも、それに代わる何かが見いだせず、分からないから悶々としている、思春期の高校生相手に、「今やらずしていつやる?」「受験勉強をか?」「なんてことを言ってるの?」「浅はか、馬鹿げている」と最終列で斜に構え反抗的な態度で聞いていた。

 立場が変わって話す側になった私の話を高校生が聞いてくれるだろうか。ただ、私は高名でも著名でもない、失敗を重ね、生き恥をかきながら何とかこの年まで生き延びてきた凡人、だから話せることもある。私に依頼があったということは成功の話や「夢を持て」なんて言わない講演でもいいのだろう。どこまで私の言葉が通じるか、うわべの言葉では通じない。高校生に何を話したいか、何を伝えたいか、もう一度問い直す機会を得た。私で役に立てれば、やらせていただこうと引き受けた。
 
 高校は小、中学校からの学力と内申とを基準として選別され序列化される。高校入学の時点で新しい小社会、人間関係が始まるのでリセットされる。が、小、中学校の序列を引き摺る生徒もいる。引き摺る生徒は自分を卑下し、自己肯定感は低い。伝えたかったことの一つは、この序列を引き摺るなということ。過去は過去、学力と内申のごく限られた物差しに囚われることはない。まだ16・17才、先は長い、どうにでもなる。払拭した方が無駄な時間を過ごさなくていい。先を見据えよう。

 人それぞれ能力は違う。比べても仕方がない。持って生まれた能力を伸ばして生きていくしかない。だから、自分を縛るもの、固めるものは取り除く。学習は集中、そのためには心身の解放、だから人を縛る、固める、例えば“いじめ”は良くない。雰囲気のいいクラス、自分が受け入れられているクラス、自分の能力を伸ばせる環境、自分を曝け出せる環境が心身を解放してくれる。

 高校生のアンテナは感度がいい。高校生のときの感性は瑞々しい。年を経れば経るほど痛感するのは、あの時感じたことを超える感動は中々ないということ。良いも悪いもすべてが新鮮だった。損得がない。年を経ても常に心を動かすことが生きている証だが、どこか二番煎じの感がある。鮮度のいい痺れる感動を得るのは相当な努力が要る。感じるために没頭できること、夢中になることを探す。構えなくていい、やってみればいい、が、ほぼほぼ失敗する。恥じることを痛烈に感じるのも高校生だが、恥ずかしいは若さに無用なもの。失敗してもそこで何かを感じればいいだけ。説教臭く言えば、試行錯誤でいいということだ。

 今、習っている教科も好き嫌いの次元でなく、成績を度外視して、楽しめないだろうか。今しか、純粋に学べない。大人になって学ぼうとしても独学は本質的だが心の強度が要る。カルチャーセンターか、通信か、お金を出して習うしかない。美術の時間に絵を描く、音楽の時間に歌う、演奏する、大人になったらなかなかできない。サッカー、ソフトボール、ラクビ―、体育の時間にやる実技は大人になってやろうとしてもメンバーを集めるだけでも一苦労だ。国語、数学、英語、歴史、地理、生物、物理、地学、どれをとっても大人になってみれば面白そう、純粋に学べることに憧れる。上手い下手、成績はどうでもいい、楽しんだ者勝ち。教科担当の先生は自分のやりがいとして専攻して、職業としている人、その教科の面白さを十分に知っている人だ。

 こんなことを言いたくて話し始めた。が、次第に下を向く生徒が増えてきた。聞かなくてもいいという空気が漂ってきた。このまま話し続けても虚しい時間になる。危ない、咄嗟に演壇から降りて生徒の中に入っていった。

西郡学習道場代表 西郡文啓