西郡コラム 『試行錯誤と答え合わせ』

『試行錯誤と答え合わせ』 2021年10月

 「迷路」をやっている子どもを見ていると、学習に対する取り組みの違いが見えてくる。道を間違えて壁に突き当たり、そこでイラッとして投げ出してしまう子もいる。一方、行き止まりだと分かったらパッと引き返し、分かれ道まで戻って、もう一度別の道を探す子もいる。間違えたら戻ってまた挑む。「迷路」は試行錯誤を楽しむ教材だ。学習もまた、試みと失敗を繰り返しながら解決に向かう試行錯誤を必要としている。試行錯誤することが学習と分かれば、間違えや失敗は苦にならず、楽しく学び続けることができる。幼くても試行錯誤を自然にやってしまう子は、才能があるというより、試行錯誤を楽しむ大人が近くにいるのだろう。
 「計算ができない」「苦手」と言ってくる子は、たとえば、691÷86の筆算で商に何を立てるかで迷って止まってしまう。69は89より小さいから商は一の位にあり、6を商に立てれば余りは69より大きい、7にしてもまだ大きい。9を立てれば691より大きくなる。一度、間違えたらそこで止まってしまう。手が動かない子は最初から正解を欲しがり、間違えを恐れ、嫌う。6が違えば7,7が違えば8,9が違えば8と、決断してやってみて間違えたら修正してやってみて、違ったらまたやってみる。やっていくうちにできてくる。何度もやって、おおよその商を立てる計算のセンスが身についてくる。
 算数が苦手な子は数え上げなどの数に触れる経験が少なく、抽象的な数字が具体的なものごとと結びついていないという話を同僚から聞いた。数に対する経験の差、正しく数えたり間違えたりといった数に対する経験の少なさが苦手を作っている、という。算数を苦にしない子はたくさん間違え、たくさん試みている。そして、大人が間違えを正すより、間違えは自分で気づいて自分で正す方が自主性は育ち、学習への意欲もわいてくる。
 できない、苦手と思っている子は、できない、分からないことを隠すようになり、ごまかしやできたふりをする。ごまかしやふりは無駄な時間を使う。できない、分からないから、ここ(学習道場)に来ている。できない、分からないことは隠さないでいい、できない、分からないところを私たちに見せてほしい。学年を重ね、学習する経験を積めば、隠したり、ごまかしたり、できたふりをしても学習には役立たないことに気づく。自分で気づいたとき、当事者意識をもって学習に取り組むようになる。
 試行錯誤は、錯誤を受け止めて試行、また錯誤を受け止めて試行のサイクルが続く。錯誤をしっかりと受け止める練習が答え合わせだ。「サボテン」(計算)のように〇×がはっきりしている問題から取り組む。適当に〇を付け、形だけ「答え合わせをやりました」と取り繕う、答えを大胆に丸写しして〇を付ける、丸写しを避け、ずる賢く適当に間違えてみせる、こういった×を受け止めない答え合わせでは試行錯誤することはできない。「サボテン」(計算)の〇×答え合わせを正しく行うことが初歩的な試行錯誤の練習になる。大人は気づいていないだろう、見抜いていないだろうという他者性のなさ、想像性のなさがそもそも幼い。「私たちがチェックをするから、答え合わせをすませるのではありません。自分の間違ったところ、わかないところを探すために答え合わせをするのです。」と、事あるごとに言い続けている。やらされ感がありありだから、ごまかしたり、隠したりする。ごまかし隠して、その場は逃れても、結局、学力は身につかないことに気づくと、正しく答え合わせをするようになる。正しく答え合わせができるようになって、はじめて、〇×では表せない問いを試行錯誤することになる。間違え、失敗は当たり前、そこからよりよくしていくことが学習だ。はき違えなければ、楽しく学び続けられる。

西郡学習道場代表 西郡文啓