『読み耽って、不合格』 2022年9月
5年生になって中学受験をしたい生徒は、花まるから受験科に移ってくる。そのなかの一人に「なぞペー」が好きな子ですと花まるの教室長から紹介された生徒がいた。「なぞペー」を解くのが好きというぐらいだから算数はよくできた。ただ、単調な計算問題をサボることがあり、それが計算ミスにつながり、正解を出せないこともあった。計算ミスを本人は気にする様子もなく、解ける道筋を見出したことに満足していた。受験算数の問題に対して、問いを読み取るというより彼の算数センスと問題慣れで、“勘"で解いていた。5年生までは好きな教科を伸ばすことを優先して、ほかの教科には、授業は受けることは受ける、課題を何とかこなすといった程度で、いやいや取り組んでいた。
6年生になり模試を受けると結果が出ない。算数の頭の回転に見合う受験校がない。地元の公立中学への進学を避け、算数のセンスを伸ばすために私立中学を受験することにしたのだが、好きな教科があるだけで受験できる学校が少ない。模試の結果に自分の現実を知ることになった。国語も理科も社会も好き嫌いはなし。受験するからにはやるべきことをやろう。算数でこれだけの結果が出せるのだから、ほかの教科もやればできる。こういう話を5年生時から何度もした。聞く耳を持ったのは6年生の夏の終わり頃だった。覚えることは面倒なこと、として避けてきた。算数は覚えることが少なく、その場で考えればいい。考えること自体は身についていた。理科も社会も時間を割いて向き合えば、そこそこ点数を取るようになった。漢字や語句も一冊の問題集に〇×を付けて繰り返すようになった。
最も苦手にしていたのは文章の読解だった。自分勝手に文章を読んでしまう他者性のなさで、正解に行き着かない。自分の考えで読んでしまうことは悪いことではないが、正解のある受験国語では点数を取れない。読解も算数と同じ、何を聞かれているのか、気持ちなのか、情景なのか、自分勝手に読みのではなく、相手(作者、出題者)が何を求めているかを考えること。問題文を精読して、読み方と問いの答え方を練習した。受験1か月前から急速に力をつけ、正解を出すことも増えてきた。もともと算数の能力のある子だから、好き嫌いをなくして本気で向き合っていけば、実力はついてくる。何とか受験に間に合うのでないかという手ごたえがあった。
本人も親も有名私立に挑戦する気はなく、彼の実力に見合った、近場の受験校を選んだ。私立中学受験は本番の試験の結果のみで合否が決まる。まだ小学6年生、何がおこるか、おこすかわからないが、体調を崩さず、極度に緊張しなければ彼の合格は大丈夫だと信じて、試験に送り出した。
しかし、結果は不合格。私たちの指導、対策が徹底できなかった、か。志望校の倍率が今年は上がったなど原因を探っても結果がすべての受験では言い訳にすぎない。申し訳ない。不合格を報告に来た彼に何と言っていいか、かける言葉を迷っていると彼の方から「国語で失敗しました」と話し出した。やはり、国語か、足を引っ張ることになったかと思っていると「文章がおもしろくて、読みこんでいるうちに時間がなくなりました」あっけらんという。「文章がおもしろくって」という言葉が彼から出てくるとは思わなかった。そして、それが不合格の原因となったこと自体が唐突だった。文章がおもしろくて、読み耽って、時間がなくなって、不合格、というのだ。
出題は五木寛之の随筆から抜粋された文章だった。戦中に父から古典の素読や剣道など教えられ、小説の類を読むなと禁じられた五木少年は隠れて小説を読み、見つからないように雪の中に本を隠す。雪の中からでバリバリになった本を取り出し、読んだという文章だった。彼が読み耽るのもわかる、おもしろい文章だった。「なぞぺー」を解く自分と読むなという小説を雪の中に隠してまで読む筆者とを重ね合わせ、入試であることを忘れ、のめり込んで読んでしまったのだろう。
幸い、2次試験があり、彼は合格をした。受験国語の文章と問いは各学校のセンスが問われるので、いい文章、良問が出題される。いい文章、良問は受験生の国語力を鍛える。彼も最終的には受験国語に真剣に向き合ったことと、6年生になり精神的に成長して他者性が芽生えてきたことが彼の読解力を伸ばした。私立中学を目指さなければ、小学6年生が五木寛之の文章をおもしろいとは思わなかっただろう。そして「文章を読み耽って、落ちました」という素敵な言い訳も残さなかっただろう。
西郡学習道場代表 西郡文啓