『算数、数学で学んだこと、その後』 2024年7・8月
直角三角形の各辺を一辺とする正方形を三つ描いた図が、中学3年生の教室の黒板にあった。この図はなんだろう。帰宅後、『数学辞典』で調べてみると「三平方の定理」を証明する図であることがわかった。『数学辞典』の解説にそって何度も図を描いてなんとか理解した。2年生の私は「三平方の定理」を予習することになった。
1年後、授業は「三平方の定理」の単元になった。数学の教師が1年前とほぼ同じ図を黒板に描いて「これを説明できる人はいますか」というので、私は手をあげ、1年前に理解していた『数学辞典』の解説を一通り説明した。「考えなさい」という意味で「だれかできますか」と問うた教師は、説明してみせた私に感心していた。クラスメイトも「こいつは、やっぱり数学ができる」という目で私を見ていた。算数に引き続き数学も好きというより、他の教科よりも学習がしやすかったので、定期試験の点数はよく、数学はできるほうと見なされていた。しかし、「三平方の定理」をいきなり説明したことで、「できるほう」から「学年トップクラスに数学ができるやつ」と位置が一段上がった。
たまたま1年前に廊下から見えた図を調べたから説明ができただけ、この場で、自力でひらめいたわけではないと謙遜したところで、「へりくだるも自慢のうち」になるだけなので、そのまま黙って、“虚像”を受け入れた。学年トップクラスで数学ができるというレッテルは、常に定期試験でいい点を取らなくてはいけない重荷になり、できない自分をさらけ出せない苦しさ、いつか落ちる不安もあった。一方、「できる」という見栄を維持したおかげで成績のいい中学校生活を送ることができた。
高校は中学校で成績のよかった生徒が集まる学校だったので、「私は数学ができる」は通用しなかった。民家の障子を取っぱらった一室で、数学だけを個人で教えるところがあった。大学入試レベルの数学問題の解法を教えるので、その一室に同じ高校の生徒が30~40人集まるほど評判がよかった。私も入れてもらい、数学の問題を考え、解法を学び、そして自力で解く。数学の問題にのめり込んだ。没頭することで自分が生き生きしていると感じ、解法を見いだす快感は、生きる源の一つになった。
後ろのほうだった高校の成績も徐々に上がり、高校2年生の夏休み明け、平均点が20点ほどの数学の実力テストで私は63点を取り、クラスで2番目の成績だった。1番は80点を超えた生徒で、その後、現役で東大に行った。
そして、このときが私の数学における学業のピークだった。もっともっとと焦る気持ちに反して、勉強しても効率が悪く考えられない。覚えられないと自分の限界を感じて、これ以上は望めない、ダメだ、と見切るようになった。次第に、受験勉強や大学へ行くことに何の意味があるのかと、否定的な見方をして無気力無関心の状態に陥った。学校に通っていたが、親とも誰とも口をきかず、頭痛と体のだるさと憂鬱な日々だった。昼はもうろう、夜は覚醒の昼夜逆転のなか、自宅にあった誰も読まない文学全集を、夜の闇に読みあさることで明日を迎えた。
大学進学を辞める勇気もなく、惰性で大学入試を受けたが、当然のように落ちて浪人した。入試の最中に退席して帰ってくるなどして、逃げた。「学ぶ、やりぬく意志をもつ」「逃げない、正面から取り組む」「あきらめない、何か方法はある」、この「学習道場の心得」の文言は、受験から、学習から逃げ出した私を顧みて作った。
最後は地元の大学での入試だったが、受ける気力がないから自暴自棄になっていた。高校が違うことから疎遠になっていた中学の同級生が、私と同じ大学学部を受けることを聞きつけ、入試当日の朝、私を迎えに来た。誘われるまま彼と入試会場に向かった。
数学の問題が配られ、よく読んでみると、あれ、これ、高校2年生の夏までに学んだ“残金”で解ける。スラスラ解いた。高校2年生の秋以降の1年半、一体、何をしていたのだろう。地元の大学になんか行くものか。大学を高望みして勝手に挫折、小学校、中学校の「できる子」というちっぽけなプライドが、自分の成長を独りよがりにひん曲げてしまった。合格したのは教育学部の数学科だったが、数学はあきらめ、教育学科に移った。
数年前、スクールFCで教えた最後のクラスは中学3年生の数学で、私の数学経験を顧みながら、楽しく教えることができた。
西郡学習道場代表 西郡文啓