『愛を注ぐ』2022年11月
先日、会社のソフトボール大会に、3歳の男の子を連れて来ていたお母さん社員が、おもしろいことを報告していました。その日は、私を含めソフトボールにのめり込んでいる大人たちから、少し離れたところで、手の空いた社員たちが入れ替わり立ち替わり、その男の子と遊んでいました。絶叫と言っていいくらいの声をあげ、笑い転げ、休む暇なくフリスビーを投げながら走り回っていました。そのお母さん社員によると、バスで帰ったのだが、いままであれほど「できるといいね」と言っていた、降車時の運転手さんへの「ありがとうございました」が、自らサラリとできたというのです。おそらく、たくさんの大人たちが好意を持って存分にヘトヘトになるまで遊んでくれたことが、彼の心をパンパンにして、その力で、ひるんでいた「課題」を主体的に乗り越えることができたのでしょう。遊び込むことがいかに子どもにとって大事か、という事例でもあります。
さて、先月書いた、花まるエレメンタリースクールの翌年度の説明会でのこと。興味深い話題になりました。「うちの子はHSC(Highly Sensitive Child=非常に敏感な子)なんですが、配慮していただけるのか」というような質問が出たとき、花まるエレメンタリースクール校長・林の答えはこうでした。この4月に24人が入ってきたとき、かなりの数の保護者が、学校で調べたほうがいいと言われウィスクなどの検査をしたとして、何らかの症状名を伝えられた。実際に、敏感であったり離席が多かったり、他人とのコミュニケーションが取れなかったりするなど、その通りの「症状」を見せる子ばかり。ところが、半年経ち、喜んで通う場所になり、仲間の個性をお互いが理解し尊重できる空気になったいま、「あの症状名は何だったのか」という、のびのびした笑顔あふれる空間になっている、と。
これは、いま現在の日本の病巣を打ち抜く報告だと直観しました。教育の現場に行くと、学校であれ塾であれ「多動の子が増えたよね」「発達障がいって増えたよね。昔はこんなにはいなかったよね」というような会話がなされることが多くあります。ネットなどで調べると、人工授精や高齢出産が多くなったせいではないかとか、食品に含まれる合成甘味料など化合物の複合汚染ではないかとか、根拠のない推測にすぎない言説が飛び交っています。
仮に実数として増えていようがいまいが、いま目の前に、そのような「症状」を発する子どもが、わが子だったり教え子だったりするときに、どうすればよいのか。その答えを、花まるエレメンタリーの経験が教えてくれたように思います。彼の言葉を要約すると、以下のようになります。
どんな子であれ、やってはいけないことはキチンと基準を示す、叱ることももちろんありつつ、笑顔と深い無条件の愛で包まれ「この世界にいていいんだ」「僕がいることで喜んでくれる人が確かにいるんだ」と確信したときから、困りごととして発揮していた「症状」の大半は、コントロールできるものになる。
では、周りを困らせていたときはどうだったかというと、「育てにくいな」と悩み、眉根を寄せて、愛しければこそ「この子、どう育てればいいんだろう」と不安になる親がいて、「問題のある子を見る目」で見られ、先生からは「〇〇症のある子」として「配慮する目、観察する目」で見られ、ともすると生活のあちこちの場で「何だこの子」という「否定された目」で見られる…。そんな可哀そうな状況にあったのです。
一言でいえば、存在を祝福する温かい笑顔にさえ包まれれば、望ましい社会行動をとれる多くの子たちが、【否定の目→心が硬くなる→問題行動→否定の目】という悲劇のループに入り込んでしまっているのではないか、という現状の教育界における大きな課題が見えたのです。学校の個々の先生は善意でまじめで決まったことは遵守する方々ですが、1対40という物理的制約の限界もあるでしょう。花まるエレメンタリースクールは「原則4~5人で30人」を見る枠組みなので、前述の「細やかな肯定的な目や声掛け」が可能になったと思われます。
たまたま先月この欄で書いた、ADHDの私の生徒が、抱きしめてぬくもりを感じることで変われたことと、根本は同じなのでしょう。彼の目になりきる。いかに否定の目で見つめられているか。そういう想像をしたうえで、ぬくもりや肯定の目・笑顔で包み、「大好きだよ」と言葉にする。あらためて、一見問題を抱えていない順調に見える子たちも含めて、大事なことを再確認できました。一番大事なことは愛であり、「肯定されている、喜ばれている、と子どもが信じられること」なのです。
まあ、そのためには、結局親たちこそが、人のつながりのなかで、ねぎらわれ、かわいがられ、笑顔に囲まれ、共感され、「大丈夫だよ」と言ってもらい、安心して肯定的に世界が眺められることが大事なのですが、ご近所の関係の断絶にともなって、人のつながりが崩壊していることは大きな社会課題です。いま親をやっている方へのアドバイスは、一人で抱え込み待っていないで「外へ!」「つながりを!」「相談を!」ということになるでしょうか。
最後に、ちょっといい話を。先月に続く1年生軍団の一人、年中~年長と「荒れる学年」であったときの、もっとも不良性を発揮していた少年Kくんの話です。年長の4月だったか、「大変だ」という声を聞いて見に行ったとき、走り回り触ってはいけないものを触りと、自分勝手にふるまう領域を広げんとしていたので、肩をつかんで熊の咆哮さながらに「何やってんだ!」と叱りました。この迫力で年長さんであれば、ワーッと泣き出し「ごめんなさい」と言うのがいつものことだったのですが、Kくんは、体を少し斜めにしてにらみあげながら「はあ?」と言い、「叩けば?」「何だよ!」と言い返してきたのです。もちろんどこかで覚えた真似っこなのですが、まあなんとこんな少年もいるのかと驚いたのを覚えています。
それから1年半が経ち、今年度からは私自身が直接の担任ですから、10名近くは落ち着かなかった状態から、きちんと制し、愛を降り注いだおかげで、すっかり全体も落ち着いてきました。Kくんにいたっては、古典の素読の暗唱を誰よりも頑張ったり、レインボータイムの難問に挑戦したりと、大幅改善をしていました。そして先日のこと。一人だけ居残って、コリコリと作文を裏まで書いています。その姿がかわいくて、「将来なんかなりたいものでもあるのか」と聞くと「あるよ」と即答。「え、何?」と聞くと、すぐには表現できなかったのですが、「薬とか作る、あれ」というので、「研究者?」と私。「そうそう、それ」とKくん。「どうして」と聞いたときの彼の答えがふるっていました。「お母さんに長生きしてほしいから、長生きの薬を作って、お母さんにのませるんだ。ずっと一緒にいたいから」
あの元「不良」の口から、出てくるその言葉。私には映画のなかのような、時間が止まったような、不思議な感覚になりました。ああ、教室の現場は、これだからたまりません。課題上等。平和ななかで授業ができることに感謝し、真剣な態度とあふれる愛情を持って、一人ひとりと向き合っていきたいと思います。
花まる学習会代表 高濱正伸