こころと頭を同時に伸ばす 幼児期の子育て7
『自分を楽しませるということ』2019年12月
「大切なことは、楽しんでいるかということだから、好きな花を使うべきだ」初めてフラワーアレンジを教えてもらったときのこと。その言葉に、幼いころの私の姿がフラッシュバックしました。
子どものころからなぜか「教えてもらうこと」が大嫌いでした。先生という立場になって初めて、自分の足し算や割り算の方法が、オリジナル戦法であったと気づきました。おそらく授業よりも先に自分なりのやり方を編み出し、敢行した挙句、先生の話を聞かず修正しなかったに違いありません。同じ例は、ちょうちょ結びや折り紙の折り方などに始まり、日常の様々なやり方を、自分で思いついた方法で習慣にしていく癖は、今でも変わりません。
「やらされているのではないか」という疑念がわくと我慢がならないし、「上手くやらなければならないのではないか」と感じると途方にくれました。何もかも、自分でやったと思いたいー単に我の強い(関西で言う〝きかん〟)子だったのですが。
そんな私が唯一、あたかも教えられていると思わないまま夢中になれたのは、図画工作でした。示唆に富んだものの言い方で、大事な視点だけ教えてくれたら「(好きに)やっていいよ」と放ってくれた造形教室のおじいちゃん先生の存在。いま思えば、喋らない私のこころの中に渦巻く想いをくみ取って、扱いを心得てくれていたのかもしれません。
大人になってもその性格は変わらず、「言われたことをやる」ことにもいちいち疑問を抱くありさまだったので、せねばならないことについて、「これは自分にとってこんな理由で意味があることだ。だからやるのだ。」とこころの中でいちいち理由付けをして納得しなければならない始末。自分で自分を納得させる方に時間がかかる。若い頃はそんな自分に、少々うんざりすることもありました。
何をするにも、楽しんでやることはすごく大切。そうなのです。「楽しんでやれているか」どうかが、私にとっては大事だったのです。自分で選択し、自分で決断する、そのことが、自分のこころにどれだけ影響するのか、幼いながらに私は違和感として感じ取っていたのだと、いまならわかります。私にとっての「楽しさ」は、自分の人生を生きていると感じるための、指標だったのに違いありません。
ARTのクラスで、「じゆうに、自分で決めていいんだよ」「先生の言う通りにしなくていい」「あなたはどうしたいの?」と日々子どもたちに投げかけ続けているのには、幼いころの記憶が関係していたと気がついたわけです。
やらねばならない〟局面って、人生にはあります。そんなときには、いかにして「自分なりに自分を楽しませて」やるか、そのすべを、子どもたちには(もちろんオリジナル戦法で)つかんでいってほしいなと思います。
井岡 由実(Rin)