Rinコラム 『終わり方を大切に』

『終わり方を大切に』2021年11月

 特に幼いころの子どもたちにとって、ものごとの終わり方はとても大事です。「いま」を生きている彼らにとって、直前の出来事の印象が、その出来事全体を決めるしめくくりとなるからです。どんなに失敗しちゃったな、という出来事の後にも「よかったね」で終わらせることの大切さについては、前回お話ししましたが、このことをもう少し深めて考えてみましょう。
 たとえば靴紐のちょうちょ結び。「最初は一緒にやろう、ほら、後はひっぱるだけ、自分でやってみる?」と、最後の仕上げを、子ども自身の手で終わらせるのと、最初の部分だけ自分でやって、難所を誰かオトナにやって完成してもらうのと、どういう違いが生じるでしょうか。大人から見たらほんのわずかな差ですが、まったく違う印象を子どもの心に残します。
 世界は用意されているのではなく、誰かに完成してもらうのでもなく、自分の手で創っていく、という原体験。自分の内から湧いてくるものに、より敏感になって、その力を発揮したいと思う気持ちは、世界と積極的にかかわる姿勢そのものです。
 「じゃあやって」とすぐに手を放し、遠くを見つめ、「いつも勝手に完成させられるはずのもの」をただ待とうとする子、無言でかたくなに体をこわばらせ、かかわりを断固拒否する子、「聞いてみよう。でも本当は自分でやりたいんだ」という目で見上げる子。
 「一緒に考えようか」と声をかけたときに、私はその子の反応を全身で感じます。そして、どの子も最後は自分の手でやったと思えるかどうかを大切に、ことばをかけるのです。
 子どもたちとともに、創作活動を通して「自分とは何か」に向き合うクラスを続けてきました。パンデミック以降、オンラインの創作ワークショップを継続するうち、これは親子がともに学ぶクラスなのだなと思い至るようになりました。「こんなとき、どうやって子どもの葛藤や涙に向き合えばいいのか」「手伝っていいのか、それとも手を出すべきではないのか…」「私は自分の価値観をただ押し付けていたのかもしれない」自由に創作する子どもたちの、その子らしさ、を目の当たりにすることで、保護者のみなさまの相談や質問が、浮かび上がってきます。
 そんな悩みに寄り添いながらいつも私が考えることは、その子が「自分の手でやりたいんだ」という強い気持ちを、尊重する思いが根底にあるのであれば、どんな対応でも間違いではない、ということです。
 「どうせぼくじゃない。全部お母さんがやったんだ」進学校に通っていた彼のそのことばが、いまも忘れられません。20年も前、児童精神科医とともに不登校の子どもたちとその家族に向き合っていたころのことです。たとえ表彰されるような出来事でも、彼の自信にはなっていなかった。自分の手でやりきったという体験を奪われていたのです。そのことへの長年の憤りは、思春期にとうとう爆発した。
 それは彼の、自分の人生を生きたいという強い願いでもあったのでしょう。
 どの子も親の手を離れ、いつか自分で自分の人生を創造していく。そんなとき、「自分でやれた」という体験をたくさん積んでいることが、彼らの根拠のない自信となって支えていきますように。
 
井岡 由実(Rin)