『子育てから学ぶ』2019年12月
関西エリアで開催した花まるカーニバルは、高濱が来阪する貴重な機会に、講演を聞いてもらうだけではなく、より密度の濃い時間を提供したいと考えて企画したイベントです。初年度こそ私は裏方に徹しましたが、2回目は半年以上前から若手社員が企画を練り、問題作成もトライ&エラーを繰り返し、準備に準備を重ねてくれたので、安心してすべてを任せ、私はステージにも立たせてもらいました。
初めてステージから見る会場の光景は、圧巻でした。表現力の乏しさを嘆きたくなりますが、それ以外の表現が思い浮かばないので…率直に書くと、会場がキラキラしていました。恥ずかしい限りですが、そうとしか言い表せない空間でした。高揚感の中で、この幸せな空間で何が起こっているのかを観察し、私が心から美しいと思っているのは何かを問い続けていくと、親子が頭を寄せ合っている姿だということに気づかされます。
それぞれが一生懸命考えて、考えたことを持ち寄り、笑い合い、尊重し合っている。こんなシンプルなことなのに、かくも美しい。毎日そう上手くいくことばかりじゃないけれど、たまに親子で同じものを見て、考えて、話題にするだけでも、随分お互いのことを知れることでしょう。これからも、花まるカーニバルのようなイベントが親子のコミュニケーションの潤滑油になることを願い、毎年続けていければいいなと思うものです。
そんな、美しい親子の姿に心打たれ「よし、また仕事も子育ても頑張ろう!」と思ったのも束の間、わが家では完全に「子育て悩み期」のフェーズに入ったなと実感する出来事がありました。あれだけ言わないと心に決めたはずだった「早くしなさい」「何度言えばわかるの」「もう知らないからね」を、いったい一日何度言っているのでしょうか…。朝、保育園に登園するまでの間に、たまに早く帰れた日の寝かしつけるまでの間に。しかし、まぁ、言う事を聞かないし、切り替えられない。かといって、娘にすべての非がある訳ではないことも頭でわかっているし、改善してあげたいこともあるけれど、忙しさを言い訳に後回しにしているよなと反省。同じことを繰り返しているような毎日の停滞感。ようやく、本当の意味で「もう、いい加減にしてよ!」と苛立つ気持ちがわかった気がします。これ、子どもに対しての行動だけではなく、出口の見えない毎日に対しての苛立ちも含まれていますね。
また先日は、生後半年から通っている保育園でもいよいよやんちゃが過ぎてきたようで、先生方の手を焼かせていることが明らかになりました。お散歩に連れて行っても帰らないとワガママを言う、マラソンをしても途中でスーッといなくなる、だるまさんが転んだをしたら履いてるズボンをずらして笑いを取ろうとする…。そんなことが連絡帳に書かれていました。いつもだったら、素直に「これは将来有望だな!」と思えるものですが、わが子のことになると途端に不安になってしまう。さらに、その翌日「昨日のことがあるので、今日はのんちゃんだけお散歩に行かずに、部屋に残ってもらいました」と報告を受けたと、帰宅して妻から話を聞いたときの動揺。「育て方、間違っているかな。連れて行ってもらえなくて悲しかっただろうな、傷ついただろうな…。しかし、その懲罰的な方針おかしくない?非は明らかに娘にあるとわかっているけれども…。」と思考を巡らせたときに、なるほど、これかと。自分の心も体も傷つくのはまったく厭わないが、わが子の心が「傷ついたのではないか」と想像したときに、一番心が傷つくのは親なのだということ。「もめごとは肥やし」と散々言ってきて、それは真実だと心底思っていたはずの私でも、わが子のことになると近視眼的になると痛感しました。
一方、娘がとても深く傷ついていたかというと、まったくそんなことはなく…むしろ先生を独り占めして部屋で存分に遊んだことを嬉しそうに話しているのです。そして、それを見て「もう少し反省しなさいよ」とできるはずもないこともまた知っているのに、あまりの頓着のなさに、それはそれで苛立っている矛盾。日々の成長を喜び、仕草に目を細め、健やかに育ってくれさえすればいいと願い、愛情だけを注ごうとしていた自分は今いずこ。怒声が響き渡る毎日です。
しかし、娘は何を思って、言うことを聞かず、自分のペースでやりたいことだけを繰り返しているのかを考えてみると、おもしろいことに気がつきます。それは安心して過ごしているということ。安心感がなければ、おそらく大人の顔色を窺い、大人の思い通りになる子になるものです。つまり、世の中で親の言うことを聞かない子が多いのは、どんなに怒られても絶対に見守ってくれているという安心感があるからなのでしょう。
「うちの子、全然言うことを聞かないんです」
それは、大切にされていることを知っているからなのかもしれません。
相澤 樹