『自分の心に触れる』2020年12月
1時間半という時間をかけて、自分の心に向き合えるのが作文コンテストです。大人になってもそうですが、いったい自分とはなにか、なにを感じて、なにを考えているのかなんて、意外とわかっていないものです。きちんとその時間を取らないと見逃してしまう心の動きが日常にはたくさんあります。言葉にするということは自分の心に触れることなのではないでしょうか。人が用意した言葉に想いをのせるのではなく、自分の気持ちを言葉にのせる、そんなイメージです。
昨今、『エモい』という言葉が流行っていますが、なんでもかんでも『エモい』という言葉にして表現していることのもったいなさと寂しさを感じています。それはもちろん私自身がこの『エモい』という言葉の本質と奥深さを理解しきれていないこともあるかもしれません。しかし、たとえばふとした瞬間に見えた真っ赤な夕焼け空、誰かの撮った日常を切り取るメッセージの写真、人が人に向けて放つ感情や行動に見え隠れする愛おしさなどをたった一言の『エモい』に置き換えてしまうと、それ以上にも以下にもなり得る余地を奪われたような気がするのです。
人は思考をするときも物事を認知するときもいつの間にか言葉に置き換えています。「世界は言葉でできている」は言い過ぎかもしれませんが、私たちは「扱う言葉で世界を切り取って認識している」のは間違いないでしょう。そしてその言葉は他者から与えられ、紡がれるものが多いと思っています。人は一人で生きていくという現実と、一人では生きていけない実情の狭間にいますが、その懸け橋になるのが、言葉なのでしょう。使っている言葉にその人が表れると言われますが、やはり表現豊かな人の世界は、色彩の細部まで見えているのだろうし、逆も然りでしょう。つまりは、言葉というのはその人の人生の積み重ねを表しているのです。自分の経験してきたことが心に蓄積します。辛いことも悔しいことも悲しいことも楽しいことも嬉しいことも。その感情を振り返るとどこか懐かしさを覚える、そんな瞬間が訪れるような気がします。過去に得た感情を大人になって言葉にすることがその人の歩みを知らせるなにかなのかな、と。そしてそれが人間性なのではないかと思うのです。
一方、前述であえて「気がします」と書いているのは言葉にしたくない想いもあるからです。自分が心に得た感情とその感覚を、言葉にすることによって、陳腐化されるなにかも、この世にはあると思っています。でもそれは自分の心に向き合わずに逃げたのではなく、たとえば言葉にはせず、その情景を一枚の写真のように切り取り、心にとどめておくことが、美しさを表現するのにベストな方法だということもあるからでしょう。大事なのはその時々によって、自分でその選択ができることだと思っています。『エモい』という言葉もそうですが、今ここで自分ができる最良の残し方はなにか。それを考えたときに、一つの方法として『言葉』を選べる。そうでありたいのです。
だからこそ言葉にする練習は必要なのでしょう。そして言葉にするためには、それを受け取れる感性が必要です。感性があるから言葉にできるのか、言葉にできるから感性が豊かになるのかはわかりませんが、相互関係の中で育まれるものが心を作っていくと信じています。
せっかく美しい言葉に満ち溢れた日本に生まれたのであれば、世界の細部の揺らめきに敏感でいられる人でいたいと思っています。どんな言葉も言葉自体に善悪はなく、使う人によって決まります。言葉は人を勇気づけることもあれば傷つけることもある。その重さを自分の心に触れながら、感じてほしい。そして願わくは、子どもたちの使う言葉が、子どもたちの世界を彩り続けますように。
花まる学習会 柳澤隼人