花まる教室長コラム 『背中の役割』坂田翔

『背中の役割』2024年4月

 先月、わが家に第一子が誕生しました。ひと月たって、わが子の泣く声で目覚める夜が当たり前になり、自然と考え事をする時間が増えました。そのなかで最も私を悩ませたのが「この深夜の時間、どうしたら妻が最も喜ぶだろうか」ということでした。粉ミルクの場合は作るところから飲ませて寝かせるまで私がなんとかできなくはないものの、母乳をあげる場合には、どうしても起きているだけになる自分を省みるのでした。加湿器では追いつかない冬の空気の渇きを感じつつ、「お茶いかがですか」なんて持っていくだけで、これは果たして夫としての役割を果たせているのか……?というのも正直なところでした。

 そこでふと、マットレスの上に座って授乳する妻の腰の負担を軽減しようと「お背中貸します」作戦を思いつきました。背中合わせで座るだけなので、私の機動力は落ち、得意のお茶も取って来られませんが、意外にもこれが妻にとっては良かったようでした。
 妻からは、「これが一番嬉しい。別に何かしてくれとは思わないから、安心させてくれたらそれでいい」と言われました。結果的に妻は喜んだのですが、私はいろいろと見失っていたんだなと思いました。

 「背中合わせ」を腰の負担軽減程度のことと考えていた自分を、少し恥ずかしく思いました。「なにか得のある行為」によって喜ばせるのでなく、「心から心に届く何か」こそが、ほかのどんなことよりも人の心を満たすということ。それを忘れてしまうくらいに、人の親になりたての私は冷静ではなかったようです。

 そんなことがあって、「背中合わせ」について改めて考えてみました。おもしろいのは、「ほぼ同じ座標にいるのに、二人はまったく違う景色を見ている」という点です。その状態で会話をすると、なんだかいつもと違う気分になるのです。現代には「会話中にスマホをいじって相手を見ないのはマナーとしてどうなのか」なんて議論もあるくらいですが、背中合わせでの会話は、相手の姿を見ないで話すにもかかわらず、スマホのそれとはまったく違う、心温まる感じがします。

 目の前にはいない、背中の温もりをくれる相手のことを、頭の中で思い浮かべる。これこそが、背中合わせの真髄なのだと思います。

 背中合わせになると、目と目を合わせるには地球一周分の距離がありますが、いま相手はどんな顔をしているだろうか、どんな気持ちだろうか、そんな想像が、長い距離を埋めてくれるようです。
 「自分のいないところで自分が大切にされている」というのが嬉しいのとどこか似ているでしょうか。背中合わせは、純精神的な愛を感じるにはもってこいのフォーメーションなのかもしれません。

 さて、子どもと背中合わせになったら、どんなことが起きるでしょうか。
 「わが子と手をつないだのはいつだったか…」と思う日が、いずれ来るでしょう。思春期を迎える頃には、もうぎゅっと抱き締めて頬を擦り付けるのも違うな、と感じるでしょう。
 そんなとき、背中合わせで話してみるのはいいかもしれません。
 悩んだとき、落ち込んだとき、自分がどうしたらいいかわからなくなったとき。それを救うのは家族の愛と温もりです。理屈なんか超えてしまう心の力です。
 背中合わせで、語らずにこにこしているだけでも、それは伝わるはずです。たとえ視界のなかに笑顔が見えていなくたって、記憶のなかの親の笑顔が、その子の心をきっと救います。
 普段は弱さを親に見せない子だって、背中合わせなら顔を見られていないから泣ける、ということがあるかもしれません。顔色を伺わなくていいから、いつもよりちょっぴり素直になれるはずです。

 自立していく子どもと、もう「隣り合わせ」ではなくなったと感じたときに、「背中合わせ」を試してみるのはどうでしょうか。
 人生の道の先で強く大きく見せて導くだけが、「親の背中」の役割ではないのだと思います。
 わが子の心とともにあるだけで、温めて安心させるだけで、何よりも立派な親の背中なのだと、私は信じています。

花まる学習会 坂田翔