囲碁は実力がすべて
囲碁に負けると、心底悔しい気持ちになるものです。その悔しい気持ちがまだ生まれないうちは、たくさん対局し、勝ち筋や手段が見えてくる「囲碁観の基礎」を積み上げていくことが優先になります。
スポーツ、ボードゲーム、テレビゲームといろいろ対人勝負を経験してきていますが、私は囲碁が一番悔しいと感じます。表に出さないようにするのが精いっぱいなほどの激情にかられます。
なぜそれほどまでに悔しいのか。それは「勝負を左右するのは自分の実力だけだから」だと考えています。
スポーツのように「アンラッキー」でどうにも防ぎようがないことはなく、アルゴゲームやマージャンのように配布されるものによる「運」の要素が一切なく、将棋のように駒ごとに「価値に差がある」こともなく、自分の手元にあるのは価値がすべて同じ「石」のみ。それで勝敗が分かれるのは、その価値が一定の石を自分がどこに打つか、ただそれだけだからです。
石の価値を自分が生み出す
勝つためには、この石一つ一つに自分がどういう価値をつけられるかどうか。その価値が大きいほうが勝ちに近づいていくのです。例えば二眼を作れば、その石は絶対にとられることはなく、地という価値を生み出すことができます。一人ぼっちの石では価値がないかもしれませんが、他の石と接続できると、その一人ぼっちだった石だけでなく、他の石も取られにくくなるという価値が生まれます。取られない石があると、それだけ相手がとれるかもしれなかった地を減らすことができます。
非常にクリエイティブなゲームです。自分で価値を作り上げる、自分で0から何かを積み上げていく、そういうゲームなのです。そのためしばしば「石の形が美しい」「美しい棋譜」というように、美しいという形容詞があてられます。
悔しさを乗り越えるために
少し話がそれましたが、つまりは囲碁で負けるということは「自分に重要な手に気がつけるだけの実力がなかった」「自分の着手に悪いところがあった」ということを突き付けられるということなのです。運の要素があれば「仕方がなかった」と思えるかもしれない。勝ちに差があれば「あの駒があれば」と無いものねだりをするかもしれない。ただただ、自分の実力が反映されてしまいます。
ですが、強くなるにはその感情を乗り越えなければなりません。それを一人で乗り越えるのは、とても難しいことだと思います。相当の義務感や向上心が無ければ立ち向かえないほどの悔しさです。
そのための教室であり、そのための仲間であり、そのための先生だと考えています。誰かと一緒だから乗り越えていける。一人じゃないから自分も頑張ろうと思える。
「勝ってうれしい 表に出さず」
勝ったうれしさをひけらかしてしまい、仲間の悔しい気持ちをさらに追い立てるようなことは、あってほしくない。
「負けて悔しい 本気の証拠」
悔しいと思えるようになってからが、伸びていく時期に入っていく。だから折れないで。一緒に頑張っていこう。
そういう教室でありたいと願っています。
2019年、GONOUにとって門出の年に、お通いいただきまして誠にありがとうございます。2020年も子どもたちが生き生きと学び、悔しさに立ち向かう教室として、邁進してまいります。よいお年をお迎えください。
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