Concept- 理念

自分と向き合うことではじめて、自分の作品となる。

創作活動は、その点で能動の極みと言えます。

どう感じるのか?どうしたいのか?

内側から湧き上がる自分というものに、向き合い続ける。

自分とは何か、を問い続けるのです。

そうした「内なる自分との対話」が、

現代社会を生きる上で欠かせない「非認知能力」の育成につながります。

遠いゴールに向かって興味を失わず努力し続ける力、

自分の状況を把握する「メタ認知ストラテジー」、

リーダーシップや社会性、すぐに立ち直る回復力、臨機応変な対処能力など

「未来の自分を創造していく力」が育まれるのです。

自分の分身である創作物を見守り尊重してくれる、

遊びゴコロをもった指導者とともに、

子どもたちが自分のこころと向き合い、「やりたい」を追求していく

―それがAtelier for KIDsです。

 

ARTのとびら

「対話」 

「対話」とは、なんでしょうか。人と人の間に存在するもの、と考えることが多いかもしれません。

 実際には、内なる自分と対話することの方が多いのが、人間という生き物です。

自らの興味や関心に基づいてものごとに関わろうとする、その延長線上に遊びも、学びもある。常に能動的に、学びながら自分の世界を広げようとしている子どもたちにとって、創作活動(遊びや思考実験)は実は、物を介した「内なる自分との対話」です。

ARTのとびら

人が自分で主体的に生きていると感じるためには、他者からの承認の上に、自分が判断している、自分が決めている、という実感を持つことです。大人にとっても、しあわせの軸はそこにあるはずです。幼児期には特に、熱中すると時間を忘れて没頭する、その感覚を持てているかどうかを、大切にしてあげてください。子どもたち自身の中に、学びたいことは存在しています。それに向かって、自分で内容をデザインできる、それが創作活動/遊び=主体的な学びなのです。

表現しているときは、新しい知識や発見や驚きを、感動と共に仲間と分かち合い、それぞれが「思考と想像の体験」に没頭します。そのとき、作品を出来不出来と評価することはありません。なぜなら「対話」する過程そのものに、重きを置いているからです。自分なりの感じ方考え方などを築き、他者との違いを、豊かさと感じながら生きられるようになる。そのことが、ひとりひとりのアイデンティティを形作っていくのです。

子どもたちは、制作物を必ずお家に持って帰ろうとしますが、それは自分の経験から生み出された「もうひとつの私」としての作品であり、それを保護者に見てもらいたい、と願うからなのでしょう。

ARTのとびら

「―略―りん先生のワークショップでも、1度体験させていただくと、娘はいつもしばらくそれにハマっているのですが、テレビで観た手芸などに、その後、熱中することはありません。最近そのことにふと気付き、多分彼女は、手芸や工作の技術にハマっているのではなく、それと共に、教えてくれたその人自身から放たれた何かにハマっているに違いないと解釈するようになりました。人から人へ直に伝えることって、特に子供にとっては、大人が思っている以上に何か重大な意味があるのでは?と最近ちょっと感じています。」

あるお母さんからのこのメッセージを読んだとき、ハッとしました。

この先どんなに世界が変わっても、探求する子どものそばに、その子がいま何に心を動かしているのかと対話し、共感し続ける教育者の存在が必要とされることは、きっと変わらないことなのではないだろうかと感じたからです。

 

評価者を気にせず、本来の自分を素直に出せる空間で、

「魂の喜ぶ表現」を求め夢中になる。

その感覚こそが、何かを学ぶ時の、子どもたちの土台となります。

大人の価値観に合わせる必要はありません。

表現に唯一の正解などなく、

他人からの評価に自分を合わせる必要もありません。

「いい子」でなくていいのです。

子どもたちの個性をとことんまで尊重していくことができる場所。

そこでこそ、「ありのままの自分への信頼」は育まれていくのです。

 

ARTのとびら

「しあわせに生きるために」

「学びの意欲」を育てる、といいますが、果たしてどんな風に育てることができるのでしょう。そしてそれはなぜ大事なのでしょうか。

不思議に感じたり、わからないことを面白いと感じたりすること、本当はどうなっているのだろう、と探究する能力、問題を見つけたら仮説を立て、解決しようとする心。わからないことに出会うと解決したくなるような態度。これらを育てることが、「学びの意欲」を育てることです。

「学びの意欲」をそぐことは簡単です。できないことだけを指摘し続けると、人は萎縮して自信を失います。他人の想いに敏感な子は、‘誰かの望む自分‘を演出して、他人からの評価にモノサシを合わせているうち、自分自身の喜びや楽しさを無視する癖がついてしまいます。「自分はこうしたい」という意思が薄れ、決断を人にゆだねはじめます。「次は何をしたらいいの」と、自分のことでも判断できないのが当たり前になっていく…あれ?そんなことをするために、子どもたちはこの世に生まれてきたのかな。

ARTのとびら

世界は、それを見る人が意識する方向に動いていきます。「人生はつらい」と思っていると、生きるのはどんどんつらくなっていきます。「こんな体験をしたい」と願っていると、そうなるように人生は動いていきます。これは理屈で説明することはできず、自分で実感するしかありません。「世界は意識によってつくられている」のです。将来の夢を意識すると行動が変わり、行動が変わると人生が変わります。

人生を創るのは、いつも「今」の意識です。そしてその意識を支えるのは、「学びの意欲」の上にすくすくと育った自分への信頼と、他人への愛でしょう。

自分がどうしたいか、をおさえ込んで生きる時代は終わりました。これからは、好きなことをして生きる起業の時代に、社会構造がシフトしていきます。魂の喜ぶことを行い、楽しく過ごしながら、人の役に立つ生き方を目指す「好きなことでしか生きていけない」時代です。必要なのは、将来を見据え、決断して、行動できる人材です。未来を想像したときに、旧来の教育システムのままで果たしていいのかどうか。保育者や教育者が最も意識の変革が問われるべき命題でもあると思います。

ARTのとびら

よりたくさんの子どもたちが、「自分は何をして、どんなことで人の役に立ち、幸せに生きていくのか」を選択して生きていけるように。新しい時代は、まだぼんやりとその輪郭を見せ始めたばかりです。けれど自発性を尊重され、「学ぶ意欲」をそがれずに成長した子どもたちは、きっと道を切り開き、新しい生き方と新しい社会を作っていくことでしょう。

「表現すること」 

子どもたちが本当の意味で自分の表現と向き合うために、私が大切にしていることはふたつあります。

1「見守る」

思い通りに行かないときに、助けをすぐ求めるのか、自分で解決しようとするのか。(そのどちらも間違いではありません。)時間内に終えられるのか。(終えようという思いで取組めるのか。)どんな状況でも楽しめるのか。仲間と助け合い、コミュニケーションをとろうとするのか。制作過程は、自分の心と向き合い、頭で考え、手を動かして工夫する試行錯誤の楽しさに満ち満ちています。そして子どもたちには、それぞれの成長過程でのハードルがあり、我々はそれぞれに応じて手助けや指導をして、彼らの良い部分を引き出しながら‘見守り’ます。制作中には、思わぬハプニングや思い通りにはいかない体験、心躍る発見があります。偶発的に起こるそれらの出来事や経過も含めて、それが作品です。

制作過程においての「見守る」。それは彼らの、「何を素敵だと感じるのか」という問いを、自分自身に尋ね続ける経験を、積み重ねてあげることであり、同時に、彼らの制作過程の、「どこが素晴らしいのか」を言葉にして伝えることです。

2「遊びゴコロ」

ひょうきんな自分、というものは誰の中にも存在します。それは誰かを笑わせたい、喜ばせたい、驚かせたい…というような、相手が幸せであることに喜びを感じる、社会的な生き物である人間の、根源的な欲求。

子ども達は表現していく中で、必ず自分の中の‘遊びゴコロ’に気がつきます。そして最終的には最も重要な、自分を楽しませたい、という欲求に従ってゆきます。その瞬間こそが、じゆうに「表現する」ということです。他者をイメージし、しかも自分を喜ばせる。それが同時にできることの追求はまさに、よい仕事をしているときの我々オトナの理想ではないでしょうか。

ARTのとびら

「見守り」ながら子どもたちの「遊びゴコロ」をいつも引き出せるつもりでいる。それが、アーティストでありながら教育者として生きる私が大切にしていることです。

制作過程での「感性の共有」をやり続けることで、自然と、例えば仲間の作品を並べて鑑賞するとき、どう配置すればよいか、どう配置したいのかを、自分に問い、自分たちで工夫しはじめます。それぞれの作品がみんな違っていて、みんないい。すべての創作物に敬意を払うようになります。相手の想いや表現を尊重することを、体験として学び、多様性を認めるこころが自然と育まれていくのです。

表には出さないけれど、内面は強く激しく動いていた。夢中になって表現しているとき、評価するオトナのことばで邪魔なんかされたくなかった。「やりたいようにやれることが確保されている」と、思うまま表現できた、その快感。「こうでなければならない(教師側の言葉でいうねらい)」に気づいてしまうと、それはもう遊びでも表現でもない、先生を喜ばせるためのゲーム(夢中にはなれないもの)になりさがった。そんな子どもだった私自身の心の叫びを、子どもたちと今、浄化し続けているのかもしれません。

 

制作後は、作品を展示会のように並べ、

仲間の作品を見て感じたことを、言葉にして伝え合う時間が生まれます。

自分の作品について伝えたい想いがある場合は発表し、

子どもたちはその表現にも耳を傾けあいます。

同じ表現者として、相手の作品を尊重し認め合う。

作品に良し悪しはなく、

すべての制作物に、子どもたちは敬意を払うようになります。

「相手の思いや表現を尊重する」ことを学び、

多様性を認める心が自然と育まれていくのです。

 

ARTのとびら

「何かができたときは」

教室では、私たちがその役割を担っていますが、「何かができたときは見ていてほしい」というのは、子どもの本質です。「見てもらいたい」「聴いてもらいたい」「褒めてもらいたい」「共感してほしい」…。

大人の一貫した毅然とした態度、ブレなさに頼りがいを感じ、本能的に安心できるのが子どもだからです。叱った後の方が子どもは懐く、のは教師であればだれもがよく経験していることの一つです。

子どもたちが自分で、自分の作品について説明をしだすときは、聞いてもらいたい、見てほしいという強い思いからです。隣の子の制作を、私が言葉にしていると、子どもたちは横目で必ず確認しています。それから、自分のも見てほしいと要求するのです。見てもらえることで、すでに満足の気持ち。それまで言葉を発さず無表情だった子でも、その瞬間安堵の表情をします。そして安心して次に向かいます。より自信をもって。自分の分身である作品を言葉化し、共感してもらえることは、彼ら自身への承認と同じなのです。そこからくる満足、達成感、喜び。更なる表現の追求。その繰り返しです。

ARTのとびら

彼らが考えたこと、思ったことを素直に出せる空間というのが、もっともクリエイティブに持っている能力をのばすことができる環境といえます。解放する、という言い方をすることもありますが、どんなチャレンジでも受け止められるという場で、何がよいと思うのか、あなたはどう感じるのか、とことん自分と向き合い、自分の頭で考えることを促し続ける場では、子どもたちは次々に壁を突破していきます。

思い描き、見えないものを想像しようとし、創造することが楽しいと思う(想像力)。自分の作品を見てもらうために、ストーリーや思い描いたもの、技術的な方法を他人に伝え、説明しようとする(言語力)。頭で考えたことを、実際に手を動かしてチャレンジしてみる。とりあえずやってみようとする(始動力)。他者を想定して、驚かせたり笑わせたり人が思いつかないような思いつきを試そうとする(発想・思考力)。自分が納得いくまで粘る。他人の意見よりも、自分自身と向き合う(完遂力)。

「どう思う?」「どう感じる?」「君は、どうしたい?」人生はその選択の繰り返しです。そして、それはすべて自由意志です。あなたはどんな人生を生きていきたいのか?それを問い続けるのが人生をよりクリエイティブに生きるカギなのでしょう。

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